緊急報告コモド島閉鎖へ―コモドドラゴンを守ろう

コモドドラゴンは貴重な 大型爬虫類です。

インドネシアのコモド島とリンチャー島に生息し、大事に保護されていますが、

個体数減ってきていて、インドネシアが憂慮して 、2020年からの 観光客のコモド島への入島を禁止すると決められました。

リンチャー島へは 禁止にはならないようです。

実際にいった方によると、 コモド島は かなり管理されていて リンチャー島のほうが 野生感が強いとか 言うことのようです。

ですが、こちら巨大なうえに、 いたって、危険な 生物。

人間は 勿論食事としてみなすであろう、猛獣です。

それこそ、ティラノザウルスなどの 古代の恐竜を思いおこすような 生き物で、

みたいとあこがれる方も結構、いらっしゃるのではとおもいます。

嫌いな方は 絶対嫌いですけれどね。

わたしは見たい派。

この閉鎖の記事を見たときは 大ショックでした。

最近は クルーズで 旅行に行くのにはまってまして、旅行は 船ばかりで

そういえば コモド島を通る船あったなとしらべて みたのですが、

ええええええー 年内には ほとんどない。

帆船のウィンドスターでバリから行くのがありましたが、訪ねるのは 1日だけ。

ほかには バリ島から オプショナルツアーで行くことが多いようですが、

けっこう、値段は弾みますし、バリは今あまり 興味がないところで、

でもな何とかと捜してみましたら、 ありました。

クラブツーリズムで コモドドラゴンに会いに行くことを重視した、添乗員さん付きのツアーです。

ほかに、ピンクビーチや、蝙蝠の群れもみられるらしいし、コモド島とリンチャー島両方まわりますし、ばっちりです。

これは もう 行くしかないと 問い合わせました。

年内何回かあるようです。

そして 、知りませんでした、大事なことを知らされました。

ななんと、74歳になると コモド島には 入島できないらしいのです。

その微妙な 74歳という年齢の意味はよくわかりませんが、インドネシア政府が決めていることらしといのです。

あの、コモドドラゴンのスピードから逃げられないからか?!

とも、おもえます。そして、なおかつ、このツアーは 暑い中トレッキングになるので 大丈夫でしょうか?とも言われました。

その辺は 結構大丈夫そうです。

インドネシアは 熱帯なので雨季は 雨が多くて暑い、夏場が乾季で暑いが、日陰なら爽やからしい。

そして 虫はたっぷりいますので、虫よけも必須です。

このように いろいろのことがありますが、やはり、あのドラゴンに会いに行きたいですね。

地球の気候はきびしくなるらしいし、絶滅してしまう生物も増えるらしい。

できることなら 今行くのが いいかもしれません。

閉鎖も1年といわれていますが、確かではありません。

貴重な生物を保護するためには 大事なことですが、見せてもらえるうちに

いける方は トライしたらいいかもしれません。

 







頑張った主婦の海外旅行記―ネット無しデジカメ無し英語下手でも世界へ出かけました

本が大好きな子供でしたので 世界には ずっとあこがれは持っていました。

亡くなった祖父に 英語ができたらアスワンハイダムのアブシンベル神殿に連れて行ってやるとによく言われていましたっけ。

じっさい、英語ろくにできなくても、実はアブシンベルには 行けたのですが。

今は クルーズにはまっていますが、 縁で 学校卒業後すぐにお嫁に行ったわたしは初めての海外旅行は 新婚旅行のハワイした。

短大出て直ぐ、2か月後。

結婚式よりは一週間ほどあとでした。

嫁いだ相手が 結構な海外志向の人で ラッキーなことにそれから子供なしでも子供連れでも 子供いなくなった後もいろいろ、旅することができました。

バブルのころも結構、行きましたし、もちろん昭和の終わりごろもいきました。

そのころは インターネットがないので 電話や雑誌やパンフレットを駆使して 安いツアーを見つけたりしましたし、 デジカメも携帯ももちろんないので、最初は8㎜フィルムというものをつかって ふつうのフィルムカメラです。

ですので 記録はアルバムかフィルムなので 写真を載せることが できません。

でもいつも面白いこと驚くことも ツアーでもそうでなくても満載でわたしはいつも 旅の虜でした。

たいへんなこともトラブルも多少はありましたが

飛行機事故にもバス事故にもテロにも巻き込まれずに今まで やってこれました。

この運命に感謝して また あの面白い思い出を 思い出してみたいとおもっています。

2014年からは はまった クルーズで 陸系の旅行はめっきり減りましたが

その中でも 特殊な場所などやシチュエーションは やはりツアーを使うこともありわずかに写真をお見せできるかもしれませんが、

基本ほら吹き男爵波に、面白い楽しいとおもえるお話で 楽しんでいただきたい。

さあいままで 自分では数えて居ませんがいくつの国に行けたことでしょう。

まだまだ、残ってるところも多いかもしれません。

昔のその場所が今と全然違うこともあります。

けっこうかわった場所は いくつもありますが 何度も言って、その変化を目の当たりにしてきた場所とおもえるひとつがハワイです。

そうそう、私のハネムーンの場所。昭和のころはハワイのハネムーンっていいところになっていたようです。

私の両親の時代、昭和の中頃は まだ 熱海とか箱根や伊豆大島などでしたが

もう私のころは やはり、海外。で、やはり南国の海で、ハワイでしょう。

夫の学生時代の友人が住んでいたこともあって ハワイへ、これも親戚のコネで

キャンセル待ちのツアーをゲット。

ハネムーンキャンセル待ちって・・・とその時、新婦のわたしは思いましたが、

どちらにしてもハワイは魅力でした。

近畿日本ツーリストのツアーで 宿泊はアラモアナホテル、これもえーワイキキじゃないんだと若いころ故、思いましたね。

言ったらとても良かったのですが。

まず、このツアー、添乗員さんが」ついていらっしゃいましたが、どうもハワイというのは まるで添乗さんの研修ツアーのようなものだったらしく

サラリーマン風のスーツに大きな通勤バッグを斜めがけ(このころは客のパスポートを預かったりしてましたねそれ用でしたかも。)

飛行機から、降り立った時もだいぶ、よれられて、大丈夫かという感じでした。

わたしは初めてだし、英語もわからないので 添乗及び、夫にしっかりくっつき、夫は スーツケースにたっぷりの8㎜フィルムと片手に8㎜カメラを持ての道中でした。

ごく一般的に タンタラスの丘やパンチボウルなどを回り、カメハメハ王の像にも拝謁。

ホテルは 昔から3時過ぎにチェックインです。

そしてついたアラモアナホテル。

いまは高級ホテルでクラスも上ですが そのころ、昭和のころは

何っと ロビーに屋台がいたんですよ。

あのインスタントラーメンのチャルメラの袋に書かれているような あの屋台が

ロビーにです。

色んなものを売っていましたが、印象として覚えているのは おにぎり。

のちに息子を連れていき始めたときしばらくお世話になった屋台でしたが、数年後には無くなりました。

お部屋は アラモアナビーチが見渡せるし、隣は アラモアナショッピングセンターで 実はとても便利でした。

でも最初は わからなくて 夕食をどこかで食べようと裏のほうへ探しに行って

シェイキーズがあって はいって 注文したら 直径40cmはあるピザが2枚きて おおびっくり。

アメリカはなんでもデカイときいていましたが、🍕で実感。

ツアーは ホノルルとオプションで カウアイ島にゆきシダの洞窟を訪ねるオプションをさらに入れてありましたので、ホノルルにいるうちに 夫の友人に会うことに。

車でホテルに迎えに来てくれて、裏のほうの 西海岸とか そのころ、車で行ける限りのところを回ってくれました。ドールのパイナップル工場見学は今でもありますね。レインボーシェイブアイスなどもそのころからありました。

そして こんどは ダイヤモンドヘッド側に行ったときに 新興の住宅街に案内され、一つ買わないかこれからいいと思うよと勧められたことがありました。

そのころの日本円で 800万とか一千万円くらいといわれたところ。

途中立ち寄ったモールは さびれてなにもなかった記憶があります。

友人はこれからいいに違いないので 自分も資金があったら、買いたいんだがと

熱心に言ってました。

そこがいまやあの有名なセレブの別荘の立ち並ぶカハラモールでした。

本当、買っておけば 今頃こちらもセレブになれたかもしれないですね。

そういう意味でもハワイはどんどん、変わってきています。

インターナショナルマーケットプレースの屋台が立ち並ぶお土産屋の固まったワイキキの名所も数年前になくなって おしゃれな ビルのモールになってしまいました。あの屋台の人たちはどこへ行ってしまったのでしょう。

ハワイは 新婚旅行依頼、家業の関係でも用事があったので 定番の旅行先となりずいぶんと通いました。

アラモアナショッピングセンターもその間にとても変わったんですよ。

昔は地域のショッピングセンターでロコが通ってきていました。

いまは 高級品などが たち並び、店もくるくる入れ替わっています。

昔は 白木屋という 日本の三越デパートの 前身の白木屋ので店が 大きくあって日本風のものや食品がおおくうられ、にぎわっていました。

デパートもリバティハウスというアメリカのデパートと シアーズ、jcペニーというストアだったのが ニーマンマーカスなどの高級デパートに変わりそれも 結構出たり入ったり。

ローラアシュレイも28年前くらいはまだ、アラモアナショッピングセンターに出店もしていました。

でも 街は変わってもあのアラモアナ公園からビーチに行く道とか橋とかは結構変わっていなくて懐かしいです。

あのビーチは それこそ新婚のころは 人が少なくてまだ禁止されていなかったので,早朝にビーチで鳥のパンくずやポテトチップをまいて呼ぶとたくさんのとりがあつまってきました。

ふつうのハトや白いはと、発情が「ぽぽぽぉーとかわいいウスユキバト、スズメ―ハワイのスズメは 大きいのと小さいのがいます。

そのほかに九官鳥ぽいウィキウィキも。

そのほかに有名なカーディナルもきて 感動でした。

あのビーチでは しばらく 鳥寄せができましたが、いつか禁止になりました。

今は出来ませんが ピクニックなどをするとやはり飛んできます。鳥といえば

文鳥は ハワイでは 野鳥でした。

ワイキキと アラモアナとの間くらいの軍の博物館のあたりに大きな芝生があって

文鳥が 幾羽も飛んでいました。

何処かから逃げ出したのかとおもいましたが、どうも野鳥の様でした。

そんな文鳥たちも今はあまり見かけません。

ダイヤモンドヘッドがわの カピオラニ公園のあたりには まだ飛んでいるかもしれません。

ハワイは子供と年寄りにしんせつですし、気候もよいし、日本からも程よい距離で

本当に行きやすい観光地。

そして 意外と蚊も少ないのです。

そして 、野生では へびが居ないんですよ。

これは ハワイはサンゴ礁や火山の隆起でできたかららしいんですが、

後から、書きますがオーストラリアなどは 怖いものが いっぱいいるようです。

ニュージーランドとハワイはへびがいないんです。しつこいんですが、そのせいで多くの鳥がいたんですね。

古代のハワイ人の素晴らしい鳥の羽根を使った装飾品が博物館でもみられます。

家じゅうでハワイに行きまくりましたので 東京に50年以上住んでいる私が

銀座にいった回数より、ワイキキにいた数のほうが 多いくらいです。

もう少し続くハワイ話です。

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小説クルーズパラダイス―船旅で 人生模様は波柄に

“基隆も なかなかいいところでしたわね”と

テーブルメイトのマダムは すこぶるごきげんである。

“台北にはきたことがありましたけれど、こんな港町でも 結構、楽しいのですのね。お土産もかえましたし、 市場も面白かったし、船ならではですね”と

自分から、今日の寄港地の話がでてくる。

那美たちは 昼間は 船の中であちこちいっているし、その行先がちがうのか、

毎日のディナーのテーブルメイトの日本人とはめったにであわないのだ。

不思議と、仲良くなった外国人とはしょっちゅう会うのだが。

それで 顔を合わせるのは ディナータイムなのだが、 一人で来ていた男性は いつの間にか、姿を現さなくなったので バフェや有料レストランへ行っているのかもしれない。

一人旅の女性は カップルの中で、ひとりになってしまったせいか、 余り話し好きではないようだし、 日本酒好きのご主人の奥様と那美たち二人が 話をするくらいになっている。

その奥様も さすがに ご主人が ぐいぐい行くので ちょっとけん制気分で 時には 余りご機嫌のよくないこともあるようになっていた。

クルーズも後半になり、あと少しのシーデイで 横浜へ向かっている。

でもその中で 最後の台湾の寄港地の基隆が 奥様の気分を変えてくれたので 那美はほっとした気分になった。

鷹也は明るくてお喋り上手だが さすがに一人漫才となるようなことは避けるので

あまり盛り上がらないテーブルだった。

ウェイターもいい人だがおふざけをするようなこともなく 上品に淡々とサービスをしてくれていた。

夜は催しが忙しくて 那美もショーなどに急ぎたいので 余り話しが盛り上がってもそれはそれで 忙しいし、まあ程よくてよかったのだ。

でも 今晩は ちょっと寄港地の話で、にぎわった。

この船では テーブルも時間も決まっているので 同じ顔ぶれで クルーズ中デイナーを食べることになっているがどうも あちこちで 聞いた話では 船によっては 時間が決まっていなかったり、 レストランもあちこちいけたり、二人席で ずっとということもあるし、千差万別になっているらしい。

二人席ならともかく、 人数のある席では 一応礼儀として 食事と会話も楽しまなくてはならないのだ。

カっプルで座ったからといって、二人だけで話のは失礼なので、周りとも、話題を共有しなくてはならない。

政治と宗教の話はひかえたほうがいいなどと書かれたものを呼んだこともあったし

休暇を楽しんでいることになるわけだから、あまり仕事の話も 避けたいところである。でも、なぜか、やはり、仕事をきいたり、 家族事情などに話が向いてしまうこともあって、うまく話を変えたいと那美はいつも苦労する。

鷹也は 仕事の話はリゾートですることを嫌うのだ。

別に隠れているわけでもないけれど、自分の気持ちがくつろげないからということらしい。それでも、 このテーブルでは 結構聞き出されていた。

本人たちも自分の事情を話したくて しかたがないらしく、そういうことは 結構きかされた。

みんな、それぞれ それなりに問題があったりするらしく、ついペシミスティックな 話になっていきがちで ”あ また”と 思うと 那美は ”すみません 00が始まるので ~”と席を外させてもらうほうに持っていく。

鷹也は自分は聞かれたくないが結構よその人の話は  うンうん聞いてしまうほうなので、あっそうだねとか慌てて、ナプキンをテーブルにおくようだ。

命の洗濯といえそうな クルーズなのに、家のことを引きずってみんな大変だわと 那美は思うが 鷹也に言わせるとみんな、こぼすのを楽しみにしているんだよとのこと。

旅の恥はかき捨てというけれど 皆、自分の中のもやもやもこの広ーい海の上の船から捨ててしまいたいのかもしれないなーと那美はおもう。

那美自体は それはいろんなことはあっても ここに来るともういいやとおもえているし、この先も次のクルーズのことばかり考えそうだと クルーズ中毒の兆候は あらたかである。

クルーズライフ自体がドラマの中の様なのに さらに 色んな人のドラマが 聞こえてくる 不思議な空間である。

海風にふきよせられて 人間模様まで集まってくるのかもしれない。

那美の模様は 波の形に 書き換えられはじめている。

クルーズに のると人生に

海が組み込まれてしまうのだ。

小説クルーズパラダイスートリビアで燃えろ、グローバルな戦い?

“Noo,Nami これはね パリノアメリカ人よ

生粋のニューヨークっ子の ケイトが自信ありげに 答えを書き込む。

那美も パリのアメリカ人なのは 承知の上だが、 問題は 曲名でかかっていたのは ラプソディインブルーで 那美も好きな曲だから 自信はあったが 、アメリカ女性の自信の前には それを説明する時間もなく 次の問題へと進む。

結局、那美があっていて、 オージーのジェフが 那美がなんだか、言ってたよねこれ、自信もってよ~という羽目になった。

面白いことにアメリカのレディは ほとんどが 間違えても”アラ おかしいわね”と

自信は ゆるがないのだ。

日本人は つい、外人に ”本当に? Are you sure?”といわれると よく知っていることでも ”えーとぉ

となってしまうのだ。

那美は日本人的でないと自負していた 自分が 日本人だったことに 改めて驚いてしまう。鷹也はまた 留学が 長かったので ちょっとかわっているし、 トリビアには ほとんど顔を出さないので どうなのかさだかではない。

でも 参加して、いろんな国の人と 一緒にするたびにお国柄を 見て取れるのが 結構面白くて 那美の隠れた楽しみなのである。

もちろん一概に言えることではないが おおむねの雰囲気というものがある。

日本人の中でも関東と関西、こまかくいえば 県違いでも結構違いがあるから

それの世界バージョンになるのだ。

スコットランドの 若い新婚さんは まだ20代後半だというのに 本当に物知りで

那美と3人だけのチームだったのにほとんど正解で、驚いた。

那美などは 問題を 理解することから始め、答えを日本語で 引っ張り出して それを翻訳しなければならないので もう大変。

後は スペルがわからないので ローマ字風にかいたり、 果ては 絵をかいて

”この象の絵 うまいねーと妙なお褒めをいただいたり。

英語の訓練とトリビアのゲームと 脳トレには最高、日本でもやってほしいと おもったりしている。

船の中では以外とトリビアファンが多く、

マニアに至っては強いチームで 結託して勝ち続けたり、アマチュアは引っ込んでろなどとの 発言をされて憤慨するカナダのレディもいたし、なかなか、静かだけど燃える催しになっているのだ。

一般のものと 音楽系があるが、 一般の出題は スタッフに任されていて それは多岐なところから出されてくる。

何で、そんなこと知っているのと思うほど なんでもしっていそうだが、 ネットのトリビアゲームでもかぶっている問題があったり、知る人ぞ知るものがあったり、那美は そのジャンルの広さも楽しい。

0000年のツールドフランスの優勝者はだれ?とか、 スポーツ系でもマニアックだったり、 このセリフで始まるシェイクスピアの作品を選べだの、動物系は 強いと思っている那美でも 心配になるような問題も出るとおもえば、ごく 簡単なものもあったり、簡単でも世界はメジャーでないものを那美がしっていて ”おおお Namiがいてよかった!!となったり、まあ悲喜こもごもではある。

でもお互いに頭を寄せ合って 解いていくとなんだか 親しくなるのがかんたんなのだ。

那美の最初のトリビアのときに、さそってくれた フィリピンのオフェリアのファミリーは 本当に賢くて親切、問題も悩んでいるとさっと 簡単に言い換えてくれ、そして 強く、何回も景品をもらえて大喜びしていた。

景品といってもちょっとした、船のブランドのロゴなどがついた小物だが 何となく、みんな、かちたいようではある。

那美などは 勝ちたいけど所詮ゲームだし、英語力もいまいちだしと思っているが

まにあなチームは 出題のスタッフにクレームを入れたりもする、しつこいやりとりをしていると そんなことに、うるさいぞと 正義感のおじさんなどが 大きな声で 横やりを入れ、その奥様にそんなことにくちをはさむなんてと たしなめられて、”でも だってあれだろう・・・とか 大きなオージーのオジサマが 小さくなってかわいらしいことになる。

都会風の年配カップルとしたときは 答えがあっているたびに 答えを考えたご主人に奥様が “ぐーっどぼおいぃ”と 微笑みかけるのが 何ともステキだったと

その日のディナーの話題になった。

それでも参加する、日本人が本当に少ないのが さみしいといつも思う。

日本人と組みたいわけではない、実際多国籍で組んだ方が

やはり正解率が高い、ジャンル別にいろいろ、知っているわけになるからだろう。でも、日本人だっていろいろ知っているのに、英語力がなくて 参加してこないのだろうか。

日本人だけのトリビアを催すときもあるが、それもまた 外国人は参加できないし、せっかく 世界中の人が乗っているのに、もったいないとおもえるのだ。

実際、イスラエルの人と一緒になって 後におしゃべりして お国の話を聞けた。

日本にいたらできないことである。アイスランドとドイツ人のカップルにあったり、アメリカ人だって 住んでいる場所で感じが みんな違うし、オーストラリアやヨーロッパでも そうである。

世界中がいろいろな多様性を感じられるのが クルーズとわかってきた那美だが、

トリビアではさらにその多様性のもっとおくが みえてくると おもっている。

人生の勉強の場になる クルーズねと 鷹也にいった。